杉本のぼやき

様々な個人的考察を。会社のブログではこれ以上愚痴るの良くないので。。。

誹謗中傷について

※内容はあくまでも個人の主観です。

 

世の中、もっと簡単に、もっと人としての基本を見直すべき時に来たのかと

コロナをきっかけに思うことがたくさん出てきています。

 

代表的なものとしてはSNSを中心とした誹謗中傷であったり

ちょっとした日常のことでも本当に簡単に個人レベルまでの

無責任な干渉につながっていることが話題になっています。

 

私個人として日ごろから感じていることですが

こういった部分に関しては本当に単純な話で

ただただ「自分以外の人のことが何故にそこまで気になるのか」

といった疑問しか浮かんでいません。

 

直接的に何らかの影響や被害を受けているならまだしも、

話題の内容についての感情的な部分については

あくまでも当事者個人の問題だと思いますので

批評や批判は好きにすればいいのですが

直接的にその当事者に対して感情をぶつける行為については

きちんと自身で責任を考えるべきです。

 

すごくくだらない話になりますが

街中で、何歳になっても関係なくオラオラと粋がっている人がいて

昔でいえば目が合っただの、なにか癇に障るんでしょうか?

なにやらムカつくだのという感情から

むやみにイキったり、ひどいと絡みはじめる人がたくさんいます。

 

老若男女問わずこういった人種は思いのほか多いのですが、

そういったなかでも特に目立つのが、

「実はトラブりたくはないけども精一杯攻撃的アピールをする」

といった本当にめんどくさいしょうもない人種がほんっとーに多いです。

 

限りなく反撃されない範囲でよくわからないアピール?をして

限りなく触れてこられない範囲でビビッてないアピール?をして

安全圏と判断した途端に連れ合いに強がるアピールをしたり

「今のやつ××やったな~」とか悪口やくさしを言ったりします。

 

こういった人種のほとんどが

対象に「何?」「今俺のこといった?」などと聞かれれば

「別になんでもないです」「そんなつもりじゃないです」

と答えるような凄まじく残念なレベルなんですが、

とにかく自分が安全だと思い込んでいるときのアピールが無駄にすごくて

いざ火の粉がかかってくると悲しいほどに狼狽して情けなく逃げ惑います。

 

私は一般的に外見が「怖い」「いかつい」と異常なほどに言われる人種なので

街なかでは50前のこの年になってもいまだにこういったことがあり(笑) 

なんだかよくわからないイキリ散らした老若問わずにアピられてうんざりします。

 

ただただアピられるほうはとにかく鬱陶しくてしょうがないし

アピるほうはなにやら自分の鬱憤を安全に相手にぶつけたいだけの

くだらない行動だろ?と思います。

 

こういうことする人って誹謗中傷する人とおなじ感覚だと思うんですよね。

 

自分は自分の鬱憤を晴らして自分が満足できるように精一杯攻撃するけど

相手の反撃は一切認めないし一切受けない場所を確保する。

反撃の予測すらしていない。

 

そもそも自分には一切手出しできない、

なんなら自分の発言も行動も自分の居場所すらも認識していない関係性の相手に対して

テレビの向こう側にでも暴言を吐く感覚なので、反撃そのものを想像しておらず

反撃されればどうしていいかもわからないばかりか、反撃するほうが悪い感覚で、

いざ反撃されればそれに対処する事もできず、謝罪もできず、

最も問題なのは自分のやった事がどれほどの内容なのか理解できないほど

軽はずみで無責任な感覚での行動なので指摘されても理解できていない事。

 

すごくくだらない事ですし、そうあってはいけないですが、

少なくとも相手を攻撃をした時点で当然ながら反撃は覚悟すべきだし

そういった争いに発展する可能性があるほど

相手になにかしらの感情を抱いての行動じゃないのか?

 

 繰り返しになりますが

絶対に反撃されないことを前提に、

完全に自分は安全な場所から相手を攻撃

万が一の反撃にも自分は関係ない、

相手の反撃はどのようにでも言い逃れできるような

そんな位置取りをしてから攻撃に臨む。

 

名前も居場所も、なんだったら自分がした発言すらも否定できるような場所から

ただ一方的に感情に任せた言葉を投げつけ傷つけようとする。

 

じつはこの誹謗中傷の行動の一番悪質だと思えるところは、

先程の街の例えも同じですが、攻撃する人はその攻撃が何らかの形で

相手に少しでもダメージを与える事を望んでいるというところです。

 

不快感を与えたりしたことで自分は満足感を得ることができる、

それがそういった行動の一番の原因、行動原理ともいえます。

 

実際には残念ながら

ダメージを負った人がその原因に対して反撃アクションしても

そのアクションが無効になるような結果がほとんどです。

 

街なかの出来事であれば

散々アピールしてきて不快な思いをさせてきたことに対して

攻撃してきた相手に問いかけるなど何らかのアクションすると、

その時点で反撃した側が、まるで「絡んだ」「言いがかりをつけた」など

それまでのやりとりがなかったことのように悪者にされます。

 

SNSであれば言葉のやり取りだけですから

いかようにでも言い逃れできますし、

悪意を持って攻撃したにもかかわらず

自分に反撃が及びそうになれば平気で

「そんなつもりじゃなかった」という場合もあるようですが、

自分の実生活上の身分を明かして白黒つけるような状況はほぼなく

結果的に自分が責任を負わなければいけなくなる実感はないので、

安全な場所からの無責任な行動は後を絶たない状況が

世の中に揃っているともいえます。

 

明らかに個人名、固有名に対する名誉毀損に抵触するものについては

手順を踏む事で法的な対応は可能です。

 

しかし、法的な観点ではSNS事象についての司法判断の判例も少なく

名誉毀損、誹謗中傷の境目もまだまだ曖昧です。

 

誹謗中傷への認識が拡がる中で私が心配する事のひとつに

正しい指摘や批判、苦言などとの線引きまでもが

非常に曖昧になってしまうことがあります。

 

何もかもが悪口や誹謗中傷扱いになってしまっては

絶対にだめだと思いますし

正当な意見や批判、指摘というものは大切な事ですから

そういった意味でもどちらにおいてもきちんとする事が大切で、

そのためにも匿名性の高い状況での発言の扱いについては

明確に線引きをして判断していける環境が必要だと思います。

 

 

私自身も、

こういったブログのなかで

流石に個人名を出して攻撃することはほぼありませんが

当事者であればうっすらとでも気付くかもしれないレベルで

批判や指摘をしたりもします。

 

SNSなども利用しますので、発言については気遣っていますが

そもそも自分の発言に対して責任を持っているつもりですので

軽はずみにポンポンと何でもかんでも書きませんし、

強く思うことに関してはその内容に対してきちんと考えています。

 

また、誹謗中傷といわれるような

自分の素性も明らかにせずに軽口をたたいている連中とは違って

きちんと話す必要があるならばきちんと向き合って話すつもりもあります。

 

日常生活でもそうですが、

基本的にその場にいない人の悪口をいう事が大嫌いで、

不満があっても相手に直接言うつもりがないことは人にも話しません。

 

人の悪口や文句を言う場合は

必ず本人に面と向かって言える場合だけ言うようにしています。

 

本人の耳に入って、自分がいっていたことも知られて、

もう一度本人に向かっていえるなら平気でいいますが

やはり私も人間ですから、

相手によっては思っていることを聞かれたくないとか

強く思っているけど本人には言えないことはありますので、

そういうことは誰にも言いませんし、

もしもなにかのきっかけで誰かに言うようなことがあったとしたら 

そのときは私が言ったことと、

本人に聞かれる、伝わる覚悟をしてから発言します。

 

書いてみたら本当に簡単な事なんですが

SNSだけでなく、日常生活でも本当に

こういった細かな事が考えられない人が多すぎます。

 

些細な職場のいじめなどもこういった部分が多分にあります。

 

人のことになればみんなきれいごとを言いますし

自分に関係なければそれはそれは立派な事を言いますが

実際は陰口合戦で盛り上がったりと

ほんとうに無責任で自分に対してあまい人が多いです。

 

少なくとも、

自分の発言や行動にはもう少し責任を持つべき。

 

戦えないなら攻撃もするなよ。

人の発言や行動をたくさん目にできる時代になったとともに

そういった情けない、くだらない人が浮き彫りになってますね。

 

 

 

立場や役職、肩書き

※内容はあくまでも個人の主観です。

 

世の中には立場や役職、肩書きといったものがあります。

 

大きく分けて一般的には

「立派な方」をあらわす言葉としての認識が強いかと思います。

 

様々な職業名にもこういったイメージの強いものがたくさんあり

そういった方々はそういった「立派な方」扱いになるかと思います。

 

小さなものでは「役職」、社長や専務、部長、課長、係長など

何人かの人の上に立つ立場として定められたものかなと。

 

色々な世界、業界にいろんな肩書きがあって、

そういった人たちはそういった立場に基づいて行動する

というのが常識的なイメージです。

 

しかしながら実社会では、

こういった肩書きに対して勘違いしている人がたくさんいます。

 

確かに、

こういった立場に至ったり、職業についたり、肩書きを得るにあたっては

人いち倍の努力、功績、結果などが合わさってたどり着かれた事と

常識的な観点では思いもしています。

 

では身近なところでは自分の働く「会社」などを見回して

本当にその肩書きに見合った尊敬できる方がどれほどいますか?

 

本来は、そういった立場や肩書きに至る、至った理由があり

そういった肩書きに見合った働きができうる人物であるがため

その肩書きがついているのだと思います。

 

そのとおり立派な方がいることも事実ではあります。

 

でも実際には、

その肩書きによって得られる発言権や決定権を誤って使う人が

あまりにも多くないですか?と言いたいのです。

 

私にとっての立場や肩書きというものは、

自分の努力やそれまでの功績によって与えられる特権ではなく、

努力や功績によって能力を認められ

自己の影響できる範囲に対し

その能力を発揮、行使する為の判断ができる、

権利ではなく「責任」が、役職や立場、肩書きだと思っています。

 

世の多くの立派な肩書きをお持ちの方のなかには、

その立場を与えられた特権だと勘違いし

決めれる事をいい事に自分の都合の良いように決め

自分の都合の良いように人に命令し負担をかけ、

それでいて

良い結果以外には一切責任を負わない

悪い結果は動いた人の責任とし

立場を利用して隠すだけ隠し、

立場を利用してウソで塗り固め

最後の最後まで自分では責任を取らず

自分が悪くならないように逃げ続ける

 

そういった恥ずかしい人があまりにも多くないですか?

 

大きな企業そのものや重役、政治家、官僚、肩書きある職業の方に

ほんとうに多すぎる。

 

肩書きや役職、立場と言うのは

その肩書きや役職、立場、職業を信じ任せるためのものであって

任せられたからといってその人が好き勝手していいのではありません。

 

人が信じて頼り任せる対象であるわけです。

 

そして頼られ任されるに足る人だからこそ

責任を背負い、履行し、達成できる能力があると信頼されるから

立場になり、役職になり、肩書きが生まれるはずです。

 

責任を取るのが嫌なら人の上には立てません。

責任を取るのが嫌なら人に指示できません。

 

人にだけ指示し、行動と結果を求めて責任を負わないものはただのクズです。

 

国会を見ていても

どうでもいい質問、どうでもいい返答、

時間ばかりを経過させ

とにかく核心に迫らない為のできレースばかりの茶番を垂れ流し

本来ならば見せるべきものを見せず

本来ならばやるべきことをやらず

本来ならば避けるべきを避けず

本来ならば考えるべきことを考えず

 

結局は誰も責任を負わずペナルティもない状況、環境の中で

ただただ命令できて都合よく物事が決めれる立場にいれば

そりゃおかしくなってしまうでしょう。

 

責任も責務も負わない人達が運営して、

偉そうに法律という名の絶対権力ばかりを濫用して

自分たちがしないことを声高々に強制、命令するのがこの国ですから

その国で育って社会生活を運営する人達がそんな風になっていくのは

ぜんぜん不思議な事ではなく、

そういった立場を目指す人が次々とその立場に向かうのですから

どんどんとそういった思想が強い人たちで構成されていき

いつしか麻痺してしまっていると感じます。

 

経済経済といろいろな人が話していますが

本当に経済の事や今後のこの国の行く末を危惧しているなら

少なくとも今見えているような意見ばかりが目に付く時点で

   終わってるなー

としか思えません。

 

どんなに立派などんなに専門的な話しをされても

それは所詮自分の立場さえ安泰であればいい意見にしか聞こえません。

お金の動きだけに目がいって、お金の動きの原因を見失っている。

 

経済の根幹はもっと大切な事です。

 

立場や役職や、肩書きのある立派な人たちは

もっと自分の立場に対して、

「責任を持つ」じゃなくて「責任を背負う」「責任をとる」べき。

 

人に指示する人はまず自らが遵守すべき。

人に命令する人はその結果に責任を負うべき。

決まりを振りかざす人はその意味を正しく説明できるべき。

 

そういったことに加えて人としての部分が考慮、配慮できないひとは

自分の事だけに集中して人に指示命令はもちろん一切干渉するな。

 

社会も法もルールも常識も人そのものかなり歪んでる。

 

 

自浄

※内容はあくまでも個人の主観です。

 

数日前のニュースですが遅ればせながら。

news.yahoo.co.jp

 

福岡市が学校給食用米飯(精米含む)、

パン、牛乳の基本3点について

公益財団法人福岡県学校給食会の仲介を省き

食品業者からの直接購入に切り替えた。

 

仲介を省く事によって

年間推定約5500万円を予算削減できたらしい。

 

同時に、これまでに給食会に対して

給食運営課からアレルギー児童への配慮としての原料要望など

原因となる食材を使わないように要望していたが

給食会がなかなか対応してくれないなどの理由を含め

今回の切り替えに至ったようです。

 

 

今回はこういった形で自浄作用といえる動きとなり

児童をはじめとした様々な面でメリットがある対応になりましたが

日本の行政や公益法人など、天下りを前提とした団体のシステムは

一事が万事こういった「中抜き体制」を前提とした利益ありきの運営です。

 

私はこれまでのこの国の税制や選挙システムに苦言を述べていますが

基本的にシステムそのものを否定しているのではなく、

運営する側に「自浄作用」があるのであれば問題ないといいたいのです。

 

特定の人間の特定の権利や特定の利益を前提に組織運営したり

利益システムに対して理不尽を通り越した強権行為がはびこっているから

そもそものシステムを完全に否定しているだけです。

 

基本的な税制に関しても、

ただ法律を振りかざし、民間の各状況に対する細やかで柔軟

かつ個人の権利を尊重した運営を行っているならまだしも、

自分たちで勝手に予算を設定し、法律と立場と都合をかさにきて

徴収を強制し国民の人権を無視し、国民を馬鹿にした運営を行うから

不満ばかりが巻き起こりながらも、法律という絶対的な足かせを武器に

ただただがんじがらめにし、自ら襟を正す行為が皆無だから

納得も尊敬もできないわけです。

 

どんなに深く考えても、

今の国政と国民の関係性、国民の役割と国の立場というのは

無尽蔵に不必要で意味のよくわからない計画を立て

その計画に必要なお金を無理やりにでも持っていく、

権利ばかりを主張しているニートと何が違うのかわかりません。

 

必要だから必要だからを主張して足りない足りないとお金を要求し、

親はなぜか子に逆らえずに自らの着る物をも節約してお金を渡す。

お金を渡さなければ、子は暴れ、親は子に縛られ罰を与えられる。

こういった構図と何が違うのか全くわからないです。

 

たまーに優しい顔をして

「俺もいい加減働こうと思うけど交通費がない」

「面接に行く為のスーツがないから買わないといけないけどお金がない」

 

もらったお金で少し余ったからと

お土産にお菓子を買って帰ったりすれば

親は一瞬嬉しく喜びますがそのお金は自分が渡したもので

後日、お菓子を買ってしまったからお金が足りなくなったと

また余分に、お菓子の価格以上にお金を要求し、

お菓子を買ってきたことをいつまでも恩着せがましくいい続ける。

 

もっともっともっともっといろんな事と

何が違うのか全くわからないし、

法律や立場などを考えれば国が国民に対してやっている事は

もっともっと理不尽でもっともっと悪質。

 

 

今回の報道は本当に小さな事だけど

本来は当たり前にできなければいけない「運営」だと思う。

 

自浄をもたない国政やそこに胡坐従事する者に対していいたい。

 

偉そうに法律を振りかざしてきまりだなんだと言うな。

国は国の権利主張ばかりしているが

ここまで国民の権利を無視していて

なにが運営なのか。

 

何が一番腹が立つかといえば

まるで正義、正しい事のように振舞っているダニどもに反吐がでる。

 

いっそのこと悪い顔して悪者として振舞ってくれ。

そのほうが納得もできるしいっそ清清しいわ。

 

税金、国民の借金、年金制度、法律

ウソつくのをやめろよ。ほんとに。

 

あくまでも個人の意見ですので

ウソの証明とかそういった意見は要りません。

 

誰も信じてくれないような経験で

実際に自分自身の目で見て耳で聞き学んだ事です。

 

 

杉本

自己責任とはこういうこと

※内容はあくまでも個人の主観です。

 

コロナが拡がっていますね。

 

メインのブログでご紹介した記事

www.47news.jp

 

これに通じると感じているのがめちゃくちゃ有名な以下の事件。

www.yamareco.com

 

現在のコロナにおける社会の状況の様々な事に通じると感じています。

 

人間の価値観や行動原理と、その結果や過程に関しての

人として考えるべく必要な全てが集約されているそんな気がします。

 

少しの気遣い、少しの配慮、少しの想像力、少しの我慢。

もっとみんなそれぞれなりにも兼ね備えていると思っていました。

 

確かにできる人のほうが多いのだろうとは思います。

 

この事件のときもリアルタイムで報道を見ていた記憶もありますが

特別飛びぬけた愚かな人間性を見たのだと感じ

ただただ「すげーやついるなー」と、

人事だったことをなんとなく覚えています。

 

でも、今年のコロナウイルスによって

そういった少しの思いやりや価値観など、できない人、持ち合わせていない人が

自分が思っているよりはるかにたくさんいることに気付きました。

 

今のコロナに関係する様々な人と人の関係性など

内容や規模は違えど似たような、細かな、細かな事が噴出している

そんな世の中になってしまったのかと感じることが

ほんとに多くてうんざりしています。

 

強さが求められる厳しい時代になっているのでしょう。

 

でも、

余裕がなくなり相手のことを思う気持を失ったり

人に構ってられず押しのけたり、

自分の考えを主張するばかりに人を傷つけるというのは

ただ自分のことだけを考えて自己主張が強くなっているだけで

人としてのちゃんとした強さでは全くないです。

 

本当にコロナは人間の歴史としての大きな分岐点なんでしょうね。

 

杉本

 

 

詐欺師の発想

※内容はあくまでも個人の主観です。

 

前回の内容に続きです。

 

「お金を稼ぐ」と言う事に関連して、

前回も書きましたがお金を稼ぐことの根本を忘れている

としか感じない意見を目にする事が多いです。

 

実際に莫大な収入を得ている人

高額納税者といわれる人の中でも、youtubeなどの台頭によって

SNSを含めて世間への露出も多くなっているせいもあります。

 

テレビよりも自身の興味や応援したい相手などの内容に沿って視聴できる

youtubeはいまやとても人気があって、私も自分の興味にあわせて利用しています。

 

そういった興味の延長上に料金が発生していても

自分が求める、欲することとして支払う事には全く抵抗もなく

私自身も、必要に応じて「課金」することもあります。

 

こういったシステムやサービスの全容はわからないので

間違っていたりわかっていなければ申し訳ないのですが

あくまでも、いちユーザーとして利用していますので

専門的なことや、提供側の内容などは存じ上げません。

 

そういった利用の経験上、

会員制のものや、応援するボタン、チャットの課金?など

いろいろな形でサービス提供側が収入を得ることのできるシステムがあり

代表的な有料会員の金額も様々ですが、

例えば一ヶ月300円の会員料金だとして1万人の会員がいれば

単純に月に300万円の会員料金を提供側は得ることができる、

というふうに考えることができるかと思います。

 

国内でのyoutubeの人気配信者ともなれば、

チャンネル登録者数は100万人、200万人を超えてもっといます。

 

世界では登録者数6億人とかいったとんでもない配信者もいるようですが

日本ではざっくりと登録者数100万人というのがひとつの目標のようで、

月間の動画再生数や広告、案件などによって幅広く異なるなかで

100万人登録、月間トータル100万回再生となれば

月収で数百万を超えるといった話を良く聞きます。(間違っていたらすみません)

 

前置きが長くなりましたが、

こういった収入の発生システムにおいても

結果的に数百万、数千万、数億といった月収を得ている配信者がいるわけですが、

そのお金は、何をやっているかわからない金主さんから

出所のわからない大金をもらっているわけではなく、

一人ひとりの視聴者さんの有料料金の数百円や、

案件スポンサーの販促費用としてスポンサーが出資したものであったり、

広告掲載による広告費用であったりと、

小さなお金の積み重ねの結果の大きなお金だと言う点に対して

収入を得ている側が、そのトータルの収入の金額だけを引き合いに

自身の納税額や収入を前提に、自分以下の収入や納税額の人間を

見下したり馬鹿にしたり、発言権を否定するというのは、

結果的に自分の収入や現在の状況などを否定していませんか?

といいたいというのが今回の趣旨です。

 

前回の記事でもそこそこ説明しましたが

ちょっと自分の中で足りない、消化不良な部分があったので

今回の記事でもう少し書いてみようと思いました。

 

タイトルにある「詐欺師の発想」という点については

ここまで説明した大きなお金を生むシステムを背景にして

収入を得ている人に対してこんな話をしてもおそらく

「妬み」「嫉み」の類だと言われる事でしょうが(笑)

 

前回も書いたとおり、

提供する側が自分の提供に自信を持つことはとてもいいことです。

素晴らしい内容、お金を出したくなる内容、

そういった提供を行っているからみんながお金を出してくれています。

世の中のニーズも当然ながら、様々な角度や様々な視点から

そういった提供にたどり着き評価され利益につながる。

 

例えば、とても美味しいスイーツを提供するパティシエがいて

店舗を構えて販売し、飛ぶように売れる。

色々な商品や色々なサービスなど、色々な仕事の原点はそこだと思います。

 

世の中の収入を得るほとんどの方法と言うのは、

なにかしらのサービスや商品の販売の積み重ねで

ごく一部の投資や、権利、ギャンブルといった不労所得を除き

youtubeであっても映像サービスの提供、個人の魅力などの提供など

何らかの対価であることだと私は考えています。

 

この時点で、

サービスを提供する側が、その対価を得る原因(サービスや商品)に対して

対価を支払う人を「お金」としてみている時点で

詐欺師と同じ発想だといいたいわけです。

 

詐欺師はお金を得る為に

ウソにウソを重ねてお金を出す人間に

「お金を出したい」と思わせる事が最大の目的なわけで

そのウソとなる商品やサービスに対しての思い入れなんて一切ありません。

あるのは、

いかにお金を出したくなるように騙すか、騙されている事に気付かず

せっせとお金を払い続けてくれるようにすることです。

 

詐欺師の理論のなかには、一部宗教的なものと重なる部分があり

要は「お金を出した人間が納得して満足しているならいいじゃないか」

という側面があります。

 

事実、お金を出している人が

お金を出す事で満足や充足を感じることができているなら

もしもそれが完全なる詐欺であったとしても

その人にとっては価値のあるお金の支払いになるわけです。

 

例えば、100均で買って来た陶器を

「この陶器を家に飾っておけばあなたは幸せに成る」

と言って500万円で売り、それを買う人がいたとしても

買った人が本当に幸せを感じる事ができ喜んでいれば

一概に詐欺とは言いがたいのかもしれません。

 

ただ、ここで売る側の心理を考える必要があり、

売る側が

「あの人は簡単に騙されるから100円のものでも500万円で買う」

という考えの基に売っていたら、

三者的には詐欺行為に感じてしまうでしょう。

しかし、

売る人が

「私は話でその人を幸せにする自信があって、陶器はそのための媒体に過ぎない」

という考えならば、会話とそういった金員のやりとりによって

買う側がトータルで幸せを感じ、対価に対する充足を感じれば

詐欺と言い切ってしまうのは少し違うのかもしれません。

 

 

この時点で、

詐欺師と一般のサービス提供者の違いと言うものは

お金を出してもらう商品やサービスに対して

お金を出してもらう事だけが目的なのか

お金を出してもらえるものに自信を持っているのか

の、ただ一点だけではないかと思います。

 

普通の考えは、自分が努力し、

自分が作りたいものを自分が満足するように作り上げ

それを評価してくれた人、求める多くの人が納得してお金を払い

お金を払って手に入れたものに満足する。またほしいと思う。

そういうことだと思います。

 

だから、

私が扱っている商品を利用してくれる人に対し

自分が薦める商品を評価して求めてくれ対価を払ってくれることに

喜びと感謝を自然に感じ、同時に責任も感じています。

 

そういったお客様

何処のどんな方がいるかわからない。

人ぞれぞれ様々な環境の中で生活し、

私の商品を通じ私と僅かながら関わりを持った関係性ですが

少なくともそういった方々の対価を支払ってくださる積み重ねが

私の仕事としての達成感であり収入になるわけです。

 

きれいごとではなく、本当に感謝しかなく、日々生活できる事は

全てそういったお客様たちのおかげでしかありません。

 

私も当然ながら、毎日少しでも販売を拡大し、使ってくれる人が増え、

このままどんどんと会社が大きくなってくれればいいなと思っていますし、

そうなれば単純に私の収入だって増えるわけですからありがたい事です。

 

基本的にはほとんどの方がこういった考えに近いんじゃないかなーと思います。

 

ただここで

もしも私の会社が成長を続け、高額納税者といえる所に達したとき

十分な収入と高額納税による社会貢献(笑)を前提に、

自分よりも納税額の少ない人々の発言権を否定したり、

自分よりも収入の少ない人の努力を否定したら、

たくさんの人々の利用によって生んでいる自分の収入を

自分ひとりで作り上げたものだと勘違いした事になります。

 

このたとえはあまり好きではないのですが、

低所得のなかからも自分の好きなもののためにお金を払っていたり

様々な事情から一般的な収入に収まる生活をしている方々や、

収入や納税額に関係なく社会貢献と努力を人一倍している方もいて、

確かに収入が少ない事に対しての不満はたくさん聞こえる世の中ですが

だからと言ってそういった人々のすべてが

自分の生活や環境や取り組みや努力に不満を持っているのかというと

それは全くの別の話になると思います。

 

自分の努力が評価されてお金になる事は素直に感謝すればいい。

でもそのお金にはそれぞれの背景やそれぞれの理由があるはず。

 

納税額が少ないから発言権がない?

もっとたくさん税金納めてから不満を言え?

想像力も何もない本当に薄っぺらい意見だなーと

心の底から軽蔑しますし、

 

こういった考え方はまさに

二十歳そこそこの若年で経験もなく野心まみれの思い上がっているときに

安直な発想で軽はずみに夜の仕事をやったり(半端ではない接客スキルが必要です)

変なネットワークビジネスにはまったり、

危なっかしい、人に迷惑掛けようとも自分に入ってくるお金だけに執着し

リスクも見えずに安易に小金を手に入れて吹き上がっている

そういった幼稚で稚拙な考えだなーと心から思います。

 

まぁ、二十歳そこそこの若い時期のそういった考えは

私自身にも経験がありますので取り立てて否定はしませんし

これからいろんな経験をつんで考えがまとまっていくんだろうと思います。

 

でも、それなりの年齢、それなりの立場、それなりの経歴を前提に

声高々にそんなことを言っている姿を目にすると、本当に痛々しいし

「莫大な収入で麻痺しておかしくなっちゃったんだなー」と

自分はくれぐれも気をつけようと思ってみています。

 

私も若いころ、簡単に数千万~を手にする機会が何度かあり

調子に乗ってこういった考えに近い「金持ってるから」を

やってしまっている時期が確かにありました。(悪い事はしていません)

でも、当時を思い出しても

納税額で発言権がどうだとか、

そもそも収入が自分より低い人が自分よりも下というような感覚は

全く感じたこともありませんでした。

だって、知人にも友人にもいろんな職業の人がいていろんな収入があって

いろんな考えのいろんな生き方の人たちがいましたから

一概に収入だの何だので人を判断する事はほとんどなかったです。

 

 

そもそも国の税制や社会制度などの内容、三権についてなどに興味があり

法曹関係に従事することを目指して法律を学んだ時期もあったので

その延長上で税制自体に少し思うところが今もたくさんありますので、

納税=社会貢献 といった発想に私は全く結びつきません。

 

かるーいうわべだけで考えれば確かに 納税=貢献 といえなくもありませんが

もっときちんと掘り下げれば、納税のシステム、税制の根元にあるものが

経済や社会の構築に対しての非常に効率の悪いマイナスの要素があり

元ZOZOの社長が言っていたように「ちゃんと使ってくれるなら」のとおりで、

その部分がいつまでも悪化をたどっている状況のいまの税制と、

それらをとりまく司法のあり方についても問題だらけの状況で

軽はずみに 低収入=努力不足 とは思いませんし、

納税額=貢献度 のように立派な収入ベースだとも全く思いません。

 

納税額云々言う人にこういった事を言うと

なぜか的外れに脱税や国税の話しなどを引き合いに出してくる人がいますが、

脱税ひとつとっても、法律云々かんぬんで批判するならば

法律の枠内できちんと自分の収入に見合って納税している人に

何の落ち度があるのか?なぜ馬鹿にされないといけないのか?

私には全くわかりません。

 

国民の義務を自身の身の丈に応じてきちんと履行しているからこその国民の権利であり

その大小と差異があるからこその経済であって、その大小の為の細かな税制です。

納税額や収入の大小に応じて権利などに優劣が決められるべきなどという発想そのものが、税制や社会のあり方そのものと経済の枠組みを否定している発言だと気付くべきです。

 

社会的に頭がいい人たちが言っているので私が間違ってるのかな?

としても、簡単に人権を否定する引き合いに

お金を使うような人にはなりたくない。

 

自然災害の現場などを本当に知っている人なら皆までいわずともかな?

 

小難しいつもりでお金お金、法律法律って話の脈絡もなくいうやつほど

平和ボケの末期症状だと私は思います。

お金に頼って一切人に頼らず生きていってほしいです。ひとりでやれと。

 

 

結論としては

簡単に自分の収入の元となる不特定多数の様々な人々を軽視したり

収入=立場 納税額=発言権 と言うような考え方をする人間は

薄っぺらい、お金でしか人を見ることもできない

詐欺師のような人間だと言いたいということです。

 

 

杉本

いろいろ

※内容はあくまでも個人の主観です。

 

今までは会社のブログを通じて個人的な見解などを書いてきましたが、

個人的な考えが強すぎるので(笑)こちらに書く事にしました。

 

会社のブログにいろいろかいていたのは

私個人の人となりを包み隠さずさらす意図があったものの

メインの話よりもそちらが大部分になることが多く

また長文が多いので「これではだめだなー」と思い至りました。

 

書き始めに今の世の中の話題に対していろいろと思うこともあり

頭が悪いなりに思うまま書き綴っていこうと思います。

 

日記の感覚で、書いている時点の自分の考えなどの変化など

このブログを通じて感じていければいいなーの自己満足ですので

見られる方がいましたら生暖かく見守って頂ければと思います。

 

 

ではいきます。

まず、今の世の中の変化について。

 

新型コロナウイルスによって世の中は大きく変わりました。

いまさらですが初期の段階でもっと明確に対策するなど

方向性をはっきりと、やる事はやる、やらないならやらないと

けっこうきっちりとしていれば良かったのでしょうが、

結果的に不明確な部分からみんなが逃げてしまい

それぞれの価値観ばかりが強く現れてしまうといった

残念な世の中が広がってきています。

 

自分の身を自分で守るという大前提のなかでの価値観で

社会性というか、思いやりや配慮、我慢といった部分が軽視され

「自己責任」を完全に取り違えた考え方の声ばかりが大きくなり

日本の文化といえる思いやりの心はむしろ足かせになってしまいました。

 

「自己責任」というものは、

完全に自分で責任を取る行動を自己で選択した場合の結果に伴うもので

人々の行動全てに対して適応されるものではありません。

人の身にマイナスの現象が起こった際

なにかにつけてそれが「自己責任」と言うものではなく、

人に配慮せず、人の忠告を聞かず、自分ひとりで決めて行動した結果

ひどい目にあったりマイナスの現象に遭遇した際に考えることです。

 

「自己責任」を人に対して軽はずみに使う人が本当に増えましたが

使いまわす人に限って自分が人にかけた迷惑から責任逃れする為

迷惑を訴えてきた人に対して使う場面が本当に多く見られます。

 

そもそも「自己責任」という言葉の使いどころというのは

自分自身が自分自身に対して考えるべきものであって

世の中で軽はずみに使われている感覚の多くは人に対してです。

 

私個人が考える人に対しての「自己責任」というものは

まさにどの角度から見ても「自業自得」でしょ?という場合のみで、

何でもかんでもその人の環境に対してその言葉を用いる発想になることは

ほとんどありませんし、人にその言葉を投げかける事自体が

非常に傲慢で非常に無責任な行為だと認識しています。

 

とても残念に思うことが増えたこのごろです。

 

 

次に最近ちょくちょく話題になっている

「稼いでいる人による傲慢な発言」が本当に多い事。

納税額によって立ち位置が変わるといったような主張が増えていて

SNSの普及によってその考え方が簡単に多くの人の目に触れます。

 

『選挙に対する発言権の大小を収入に準じるべき』

『社会への不満はたくさん納税してから言うべき』

 

こういった意見を時々見かけます。

個人的に非常に尊敬していた某有名人も最近この発言をしていて

尊敬していた方だけに凄まじくがっかりしました。

 

確かに、

社会貢献度と言う意味では高額納税者は多くのお金を納めていますから

そういった考えが出てくる事事態は否定しません。

でも、高額納税者がそういった発言を公に声高々にする事の幼稚さには

心の底から本当に幻滅します。

 

高額な年収を得ている方々、高額な納税を行っている方々

いろんな意味でいろんな形でその収入を得ていることでしょうし

その収入を得る為の努力や方法などについては素直に尊敬します。

 

私自身は特段高収入でも高額納税者でもないと自覚していますので

そんな私の意見は、そういった高収入の意見をお持ちの方々にとっては

また低収入の抵貢献者がたわごとをほざいていると言われる事でしょう。

 

私は一応会社を経営していますが

年間数十億、数百億といった稼ぎはありませんし、

納税(社会貢献度?)に関しても

自分の生活を基本とした収入に応じてしかしていません。

 

ただ、自分の収入に応じた環境を見ていて

自分よりも収入の低い人が自分よりも劣っているとは一切思いませんし

自分よりも納税額の低い人に対して「黙れよ」とも全く思いません。

 

私の収入を得る方法、少なくとも私の収入は、

私の会社の商品を多くの方が購入してくれる事で発生しています。

販売している商品も一番安いもので700円程、高いもので10万円ほどです。

 

色々なお客様がいて、色々な形での購入があって

様々な環境の方が利用してくれていて、

そういったたくさんのお客様によって私の生活につながります。

 

そんな私のお客様一人ひとりの収入や生活環境は

残念ながら全てを把握しているわけではありません。

 

でも、お客様一人ひとりが利用してくれている積み重ねが

私の収入になっているという自覚と感謝は持っているつもりです。

 

どんな環境のどんな方が私の会社の商品をどんな思いで使ってくれているか

その全てを知るすべはないけれども、私の会社の商品を使ってくれている、

お金を払ってくれていることについては紛れもない事実です。

 

そういった積み重ねが私の会社の売上になり、その結果で私の収入が発生します。

 

何がいいたいのかと言うと、

自分がどんなに莫大な収入を得ていたとしても

収入を発生させるシステムは、

掘り下げていけば何処の誰かはわからない一人ひとりの支払いの結果じゃないのか?

ということなんです。

 

もう少し細かく言うならば

例えばスポーツ選手であっても、その収入が発生する原資は

例えばスポンサー料だったり、観客動員やグッズの売上だったりするわけですが

多くのスポンサーはそのお金を作る為に多くの顧客に対しての販売など

商行為があってお金が発生し、その積み重ねと規模で大金になるはずです。

 

誰もかれもが莫大な収入を基にした大金を一発で支払っているわけではなく

大きな企業は細かな積み重ねを行う規模によって最終的な金額が大きいはず。

 

高額納税者やとんでもない高収入を得ている人だけに発言権があるなど

自分の収入を発生させているその原点はなんなのか忘れてませんか?ということ。

高額納税者は納税額が高額になる理由として収入が多いわけですが

その収入はお金持ちの人だけがあなたに大金をもたらしているんですか?

 

低収入や低額納税者を馬鹿にしたり見下したりする人に聞きたい。

そういった人たちはすべてが努力もなく怠惰な生活をしているんですか?

 

あなたを評価して、あなたの提供するなにかを評価して、

あなたが馬鹿にする発言権もないような立場からも

なけなしのお金を払って必要としているのは

あなたが麻薬のように人をひきつける提供を行っているから

それに惑わされ、魅了されたから当然のことなんですか?

 

そのご立派な高額納税者様の提供に対して

発言権もなく社会に貢献もしていないような低所得者

勝手にお金を払って勝手に上納している構図ということですか?

 

私が何十億、何百億と稼いでいて、

できれば社会的に著名になってこういった事を言えばいいのでしょう。

少なくとも肩を並べてから発言すべきなんでしょう。

 

残念ながら自分の生活を十分に行える程度にしか稼いでいませんし

残念ながら著名でもありません。

 

そんな事はどうだっていいんですが

だいたい、社会のなかでその発言権を許される高額納税者は何%?

偉そうな意見を言えるほどの著名人は人口の何%?

 

その数%?数十%?の人々で社会を支えて

その数%?数十%?の人だけが経済をまわしているんですか?

 

低収入だと馬鹿にする人々すべてがいなくなった際に

その数%?数十%の選ばれた人々だけの世の中で

どうやってその莫大で立派で人を見下せるような収入を作り出すのか

どんな崇高などれだけ知的な計画があるのか知りたいものです。

 

 

 

お金を稼ぐことや高収入である事、高額納税である事、著名である事など、

別に、人には人の生き方や人生、価値観や努力など人の数だけあると思いますから

わざわざその人の立場や収入で判断する事なんて私はほぼほぼありません。

否定も肯定もせずその人の発言や人となりを自分で判断して自分で考えます。

 

 

高収入の著名人が納税額で人を判断したり、

低収入の人の人権を否定するということは

完全に搾取する側とされる側の支配思想だと思います。

 

自分自身を見つめた際に

確かにお金があればいろんな事ができ、選択肢も増え、

そこから楽しみを選ぶことはできるかもしれません。

でも、それが=(イコール)幸せなのかどうかは全く知りません。

 

たくさんの収入があれば幸せで、収入が少なければ不幸せなのかといえば

それこそ人それぞれの環境、人、価値観によって様々だと思っています。

 

 

高額納税=社会貢献度=発言権

 

こんな考えの人がたくさんの人々のお金の上に胡坐をかく事は

私自身はちょっと考えられないことで、めちゃくちゃ残念です。

 

この考えは、

学校や団体なんかで考えると寄付の多い家庭や人の発言は聞くが

最低限の所属だけのメンバーの意見は意味がないといっているのと同じで

今の社会は正にそうですが、こんな考えが中心になっていれば、

そりゃどんどん特定の人の利益のための利権社会になるわけですね。

 

悲しいのは、

そういう風に馬鹿にされている事に気付かないままに

せっせと低所得の環境からその支配者のために僅かなお金を貢ぐ人が

いつまでたってもいなくならないこと。

まさに支配者としてその低所得、低納税の愚民どもから

細かいお金を集めて高収入を気取っている人が

大手を振って正論の如く経済の枠組みを否定している姿を

見ざるを得ないような時代に来てしまった事です。

 

 

高収入といわれるみんながみんなではありません。

本当に立派な方のほうがたくさんいます。

 

ごく一部の思い上がった成金の発言が少し気になったのと、

兼ねてから考え方などを支持していた素晴らしい方が

軽はずみな低所得蔑視といえる発言をしたことに衝撃を受けたので

書きたくなりました。

 

 

杉本